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東京家庭裁判所 昭和57年(家)710号 審判 1982年5月31日

申立人 大村芳子(中国名 陳芳)

主文

申立人が下記のとおり就籍することを許可する。

本籍 東京都江東区○○×丁目××番

氏名 大村芳子

生年月日 昭和二〇年五月一四日

父母 不詳 父母との続柄 女

理由

一  申立人は主文同旨の審判を求め、その申立の実情の要旨は次のとおりである。

1  申文人は、昭和二〇年(一九四五年)五月頃、旧満州牡丹江付近において、日本人を父母として出生したが、終戦による混乱の中、同年八月中旬頃、牡丹江市内において、母親により中国人に預けられ、その後中国人陳恵志夫婦に引取られ、以来中国名陳芳として養育されたものである。

2  申立人は日本人である実父母とは生別したままで、その本籍、氏名も不明である。

申立人が日本人孤児であることは、養父母陳恵志夫妻も近隣の者らもこれを認めていたが、中華人民共和国政府も申立人が日本人孤児であると認定し、その旨の証明書を発行している。

3  申立人はかねて日本人として実父母と再会することを望んでいたが、昭和五五年七月、申立人が日本人訪中団と会談し、肉親を探していることが新聞報道された。そして、札幌市在住の大川茂市が申立人の父であるとして名乗り出た。

4  そこで申立人は大川茂市と文通、写真の交換をした末、大川茂市が申立人を実子と確認したので、昭和五六年一月三一日、牡丹江市在住のまま札幌家庭裁判所に就籍許可審判を申立てた。

5  申立人は札幌家庭裁判所に出頭するため昭和五六年七月二六日、日本に入国し、大川茂市と父子としての対面をしたが、同裁判所が実施した申立人と大川茂市との間の親子関係存否の鑑定の結果は、申立人と大川茂市との間に父子関係が存在しないというものであつたので、申立人は昭和五六年一〇月一九日、札幌家庭裁判所に対する就籍審判申立を取下げた。

6  しかし申立人の父母は、日本から満州に渡つた日本人であり、少くとも母は日本人であつたから、申立人は出生により日本国籍を有するものであるが、その父母の氏名、本籍が不明のため、申立人の本籍も判明せず無籍である。

よつて申立人の戸籍記載を得たく本申立に及んだ。

というのである。

二  そこで審理した結果、本件記録添付の申立人提出の全資料、札幌家庭裁判所昭和五六年(家)第二八九号就籍事件記録にあらわれた資料及び東京家庭裁判所調査官○○○○の調査報告書、並びに申立人及び大村京子審問の結果を綜合すると次の事実が認められる。

1  申立人は昭和五六年七月二四日、中国残留邦人孤児陳芳(中国人)として子三名を同伴して入国した者であるが、その所持する中華人民共和国発行の護照(パスポート)によれば、一九四五年(昭和二〇年)五月一四日生、出生地黒龍江との記載があり、また申立人は中華人民共和国黒龍江省牡丹江市公証所一九八一年(昭和五五年)六月一五日付発行の孤児証明書を所持している。

2  上記孤児証明書には「申立人陳芳、女、一九四五年五月生、(現住所黒龍江省牡丹江市○○○○技工校宿舎)が一九四五年(昭和二〇年)九月、黒龍江省牡丹江市で陳恵志に引取られて育てられた日本血統の孤児である」旨の記載がある。

3  申立人の母は日本人で、昭和二〇年九月頃、当時、三三歳前後、痩せていて背が高く、申立人のほか長姉八、九歳、次姉五、六歳を連れて終戦直後の混乱の中、牡丹江市照慶街(当時日本人街)で、同街に住んでいた中国人林容義(当時三〇歳位山東省出身)に申立人を託し、申立人の命を助けて呉れるような人に貰つてもらうよう頼んだ。申立人は宋曙栄(中国人、申夫人、当時二六歳位、牡丹江市○○区現住)の紹介により陳恵志、周友芬夫婦に貰われたのであつた。

4  陳恵志夫婦は子供がなく申立人は戸口登記はみたことがある旨述べているもののその提出はないが申立人は陳恵志夫婦の(養)子として戸口登記されていることが推認される。

申立人は中国公安局から中国国籍取得をすすめられたことはあるというもののその申請をしたことはなく、中華人民共和国許可入籍証書も、又外僑居留証も保有していない。

5  申立人は牡丹江市内の小学校、中学校、師範学校を卒業し、職に就いた後一九六九年(昭和四四年)七月、林兆福(中国人、海林県出身、林業局勤務)と婚姻し、長女世霞、長男国明、次男国成をもうけ、牡丹江市先鋒粮管處西○○○に居住していた。

6  申立人は四、五歳頃、「日本鬼子」などといじめられ、養父母にその理由を訊したりまた八歳頃牡丹江市公安局の人が養母のもとに「申立人が日本人孤児ではないか」と調査に来たが、陳恵志夫婦は、申立人を中国人であるとして日本人孤児であることを否定していた。

しかし、その後陳恵志夫婦は申立人が日本人で陳夫婦は養父母であること及び申立人を引取つた際のことを申立人に話し、申立人は宋曙栄にも会いその事情を確認した。

7  そして申立人は日中国交回復前から牡丹江市内でもその肉親を探していたが、昭和三〇年前後頃、牡丹江市内で面識を得た戸田健(昭和四五年に愛媛県に永住帰国、同県伊予市○○○在住)に「私は日本人である」(その当時申立人中学在学頃、戸田氏二〇歳頃)旨を述べ、戸田氏の帰国後昭和五三年一〇月頃同氏に親探し依頼の書信を送つた。戸田氏はこれを愛媛県福祉課に取り次ぎ調査を依頼し、同県は申立人に調査照会ののち、厚生省援護局に移管した。

また昭和五二、三年頃牡丹江市内で申立人と知合い、申立人の境遇を知り、申立人の養父母からその事情も聞いた中塚藤子(昭和五五年六月鹿児島県名瀬市に帰国)及びその娘、朱明玉こと大村京子(昭和五六年一一月同所に帰国)らは、北京市日本国大使館に宛て、申立人の親探し依頼をし、また帰国後は厚生省援護局にもこれを依頼するなど申立人を援助し、大村京子は申立人の日本語の通訳翻訳などにも協力している。

しかし未だに申立人の母の氏名、本籍も判明せず、また申立人の父も不明である。

三  以上の事情からすると申立人は旧国籍法第三条に基き日本の国籍を有する者とみられ、そうすると無籍である申立人に対し就籍を許可するのを相当と認め、主文のとおり審判する。

(家事審判官 鎌田千恵子)

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